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にだてんと数学

 にだてんは数学が苦手である。

 苦手というよりも最早嫌いと言った方が早いかもしれない。
 しかし、にだてんと数学は昔はうまくやれていたのだ。
 そう、数学が算数と名乗っていた頃は、とてもうまくやれていたのだ。
 
 にだてんは中学に進んでも、目立たぬ生徒であった。
 ところが、算数の奴はいわゆる中学デビューを果たしたのである。
 それを知ったのは、中学入学後しばらくたってからであった。
 中学に入り、クラスも離ればなれになった我々は、以前のように親しく交わることがなくなっていたからである。
 
 ある日の放課後、薄暗くなった家路を急いでいたにだてんは、茂みの中からすすり泣くような声を聞いた。
 にだてんはその声を聞いてはっとした。
 
「その声は、我が友、算数ではないか?」
 ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は算数である」と。
 にだてんは懐かしげに久闊を叙した。そして、何故なぜ茂みから出て来ないのかと問うた。算数の声が答えて言う。自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと友の前にあさましい姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも友に遇うことを得て、愧赧の念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭いとわず、曾て君の友、算数であったこの自分と話を交してくれないだろうか。
 
 
 そう、算数はすでに数学と化していたのであった。
 
 
 その後もにだてんと数学は親しく交わることはなかったが、仲違いというほどではなかったように思う。
 しかし、昔は丁寧な言葉遣いの優しげな男だった彼が、だんだんと威圧的な言葉遣いになっていくのを、にだてんは忸怩たる思いをもって見ていた。
 つるかめも、りんごもみかんも、太郎くんも花子さんも忘れ、xだとかyだとか点Pだとか、そういったことばかり言うようになってしまった。
 にだてんは悲しかったが、人のことにとやかく口を出すべきではないと思い、距離を置くにとどめた。
 
 そんな数学と久々に口をきいたのは、高校に入ったときだった。
 新しい同窓の中に、数学の顔を見つけたにだてんは、懐かしさから彼に話しかけた。
 そんなにだてんに、彼は高圧的な口調でこうまくし立てたのだ。
 
「1 辺の長さが 2 の正四面体 OABC の辺 OA 上に A 以外の点 P をとる。点 P から平面ABC へ垂線をおろし、その垂線と平面 ABC の交点を H とする。PA = t とするとき、次の問いに答えよ。
(1) 三角形 HBC の面積 S を t を用いて表せ。
(2) 線分 PH の長さを t を用いて表せ。
(3) 四面体 PHBC の体積 V が最大となるような t と、そのときの V の値を求めよ」
 
 
 にだてんはその時確信した。
 算数は芯から変わってしまったのだ。
 あの、人なつこく、愛嬌にあふれた算数はもういないのだ。
 
 にだてんは高校生活のほとんどを彼と目も合わせることなく過ごした。
 彼と仲のいい友人からは、きちんと話した方がいいのではないか、と言われたがにだてんは頑として数学と交わらなかった。
 
 それを思い直したのは大学受験もほど近くなってきた高三の頃である。
 大学受験のことを考えると、優秀な男である数学の手を借りれれば何かと心強い。
 にだてんはそのような下心を秘めて、冬休みに数学の故郷である雪国を訪ねたのだった。
 
 国境の長いトンネルを抜けると数学であった。夜の底が白くなった。信号所に点Pが止まった。
 内側の座席から点Qが立って来て、にだてんの前のガラス窓を落とした。円周率が流れ込んだ。点Qは窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
xy 平面において、原点 O(0, 0) とは異なる点 P に対し、Q を半直線 OP 上にあって、OP × OQ = 1 を満たす点とする。また、a > 0 に対し、中心 (a, 0)、半径 b の円を C とする。
(1) C が原点を通るとする。P が C 上の原点とは異なる点全体を動くとき、点 Q の軌跡を求めよ。
(2) C が原点を通らないとする。P が C 上の点全体を動くとき、点 Q の軌跡を求めよ
 
 明かりをさげてゆっくり雪を踏んできた男は、ベクトルで鼻の上まで包み、耳から帽子への垂線AOを垂れていた。
 
 にだてんは、ここが数学の故郷かと暗澹たる気持ちになった。
 もう、だめだ。
 住む世界が、違うのだ。
 
 にだてんは青春18切符を握りしめ、そのまま家へと引き返したのであった。
 
 以来20余年、にだてんは数学と顔を合わせたことはない。
 

 

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